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03.主題講演
「私たちは見つめられている」 デンマーク牧場福祉会こひつじ診療所 武井 陽一
《聖句》 2011年3月11日、東日本大震災の年、私は、日本キリスト者医科連盟の機関紙『医学と福音』10月号の編集と原稿を依頼されて、以下のような巻頭言を記しました。 大江健三郎氏は『世界』5月号、「東日本大震災・原発災害 特別編集 生きよう!」にて、『私らは犠牲者に見つめられている』と題してこう記している。「広島・長崎での死者たちも今、私たちを見つめているであろう。あの沖縄戦での犠牲者も見つめているであろう。今、被災され、犠牲となられた方々、悲しみ、苦しんでいる方々が私たちを見つめている。 大江氏はさらに「日本人は『あいまい』の中で歩んできたけれど、『明確な』決意をしなくてはいけないのではないか、具体的な一歩として「核抑止にも、原発にも頼らぬという覚悟を国民的合意とする(つまり、さらに新しい憲法条項とする)」ことが必要ではないか。…いま沖縄は、沖縄戦で犠牲となった死者と共に、苦しく生き延びえた者らが、あらためて米軍基地として追いつめられもう猶予のありえない段階で、明確な態度決定を日本に要求している」と記している。私は何より大切なこととして受けとめた。 このたびの犠牲者、被災者の方たち、原発の現場作業など苛酷な環境のもとで働き病を負い犠牲となられた方たち、過疎の地で苦しまれている方たちから、またあの広島、長崎への原爆、沖縄戦で犠牲となられた方々、現代の世界中の人たちからも、さらに誰よりも神様、イエス様から、「私たちは見つめられている」ことを意識せざるをえない。「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(フィリピ書1章29節)ことを心から受けとめたいと願っている。 さらに忘れてならないことは、日本人は加害者として、韓国をはじめ東南アジアの多くの方々に犠牲を強いたことです。犠牲となられた方々、肉体的、精神的な傷を負われた多くの方たちも、私たちを見つめています。 2012年11月、私は妻と沖縄での無教会全国集会の参加に先立ちて、伊江島の「わびあいの里・ヌチドゥタカラ(命どぅ宝)の家・反戦平和資料館」を初めて訪ねることができました。真っ先に、いつも写真集や映像で見てきた「反戦平和資料館」の正面横の、生前、阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんが車いすに座り皆さんに語りかけていた場所に、『基地の早期解放を! 阿波根昌鴻さんの遺志 デンマーク式農民学校をつくろう』という看板が掲げられていることに気づきました。その看板の下の看板に次のような阿波根さんの言葉も添えて記されていました。 農民学校の目的は、世の中でとても大切な仕事をしている農民がいつもだまされて貧乏ばかりしているので、農民が正しい歴史や政治、そして心が豊かになるため宗教を無料で学べるようにすることでした。基地解放後、真謝の地に、わしの考える農民学校をつくりたい。これが私の夢であります。 続いて、お会いした館長の謝花悦子(じゃはな・えつこ)さんが開口一番に「今も戦時中です。戦後ではありません。反省もしないで歩んできて、戦争は恒久化しています。いよいよ危険な時です。」と語られました。 その時に私は今何故に、デンマーク牧場の大地(静岡県袋井市)で働くことがゆるされているのかが感慨深く、何よりも不思議なつながりがあると思いました。伊江島ではまだ実現するに至らない農民学校の先駆けの一つの姿として「デンマーク牧場の営み」があることに気づかされました。 (2) 《以下、映像により、デンマーク牧場での営みの歩みを、<図1~3>などをお見せしながら語りました。》 1964年、デンマークから来日したハリー・トムセン宣教師が、キリスト者と仏教者との交わりの場を願い、東京と京都の中間の地に広大な大地を手に入れて、農民学校(フォルケ・ホイスコーレ)が開設されました。さらに同じくデンマークより派遣されたエミール・フェンガ―により、牧場が開墾されました。フェンガ―夫妻は、関東大震災の後、来日して、北海道・札幌に酪農場を開き、続いて、戦後に山形県新庄に酪農場を開墾しました。さらに3度目の来日で1964年、デンマーク牧場を開墾しました。デンマーク牧場の農民学校は、1964年から10年間だけ開かれ、高度経済成長などの影響を受けて、閉鎖されました。クラークなどにより受け継がれてきた農村伝道、三愛精神に学生時代より関心を寄せ、獣医師となり、デンマークに留学していた野崎威三男氏がデンマーク牧場・農民学校の教師たちと出会い、10年間の後半4年間、デンマーク牧場の農民学校の校長を務められました。野崎氏はひき続いて、アジア学院(栃木県那須)の開設に関わり、働かれました。酪農・農業に従事する青年の育成が10年で終わったデンマーク牧場の営みが、アジア・アフリカで農業農業指導者を育成する「アジア学院」の働きにひき継がれたことに気づかさました。 (みぎわ58号(2018年)p154~、 みぎわ57号(2017年)p173~参照) 《さらに、現在のデンマーク牧場の酪農・福祉・医療の営みを多くの写真を見せながら紹介しました。》 <写真1>は、南方の山の尾根より撮り、「私たちは見つめられている」と私が示された写真です。前方に、牧場とデンマーク牧場農民学校として建てられた「こどもの家」(フリースクール)が、その後方に、「こひつじ診療所」、その右側に児童養護施設「まきばの家」が見えます。 精神科診療、一対一の面接の背後に、デンマーク牧場の山々を越えたところに、第三者(神、イエス・キリスト)のまなざしをしばしば感じます。私たちの福祉・酪農・医療の営みを、臨在したもう神が見つめ守ってくださっていることを意識しやすい環境に置かれていることに心より感謝しています。第三者のまなざしを意識することにより、自分自身の驕り、高ぶり、他者を裁く心が反省させられ、同時に、慰め、いやしが与えられます。 (3) 第29回 夏期浜松聖集講習会を、今年もデンマーク牧場こひつじ診療所にて開き、創世記11~25章まで、アブラハムの生涯について学び合いました。 創世記12章1節 あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 創世記22章2節 あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 アブラハムは、12章で、約束の地に行くように命じられ、出立しました。22章で、2度め、再び「行きなさい」、イサクを捧げるようにと命じられました。 この時、「アブラハムは自らの罪がはっきり示された。罪の自覚があった。過去のさまざまな罪責があるにもかかわらず、百歳でイサクを特別に賜わった。しかし、この恩恵、祝福、喜びを充分に受けとめることのできない日々であったのではないだろうか。」と、私は受けとめました。 アブラハムがモリヤの山でイサクを捧げようとしたその時に、燔祭の羊が備えられました。 〔共同訳〕 創世記22章14節 アブラハムはその場所を、ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで人々は今日でも、「主の山に備えあり(イエ ラエ」と言っている。 〔関根清三訳〕 創世記22章14節 アブラハムはその場所の名を ヤハウェ・イルエを(ヤハウェは見る)と名付けた。それが、今日では、「ヤハウェの山で、〔ヤハウェは〕見られる(イェーラーエー)」、と言い伝えられている。 「主は備えてくださる」「主の山に備えあり」と訳されていますが、もともとは「見る」を意味する動詞ラーアーが対比されており、始めは能動態「ヤハウェは見る」、続いて受動の「ヤハウェは見られる」と直訳できる(関根清三訳、岩波訳、協会共同訳)ことを教えられました。 まず主ヤハゥエがアブラハムを見る、そして備えたもう。その結果、アブラハムは主を見ることができ、「主の山に備えあり」と告白することが出来ました。 「サラとハガル」についても学び、サラとその息子イサクのみならず、ハガルと息子イシマエルをも神は見られて、守り導かれたことを教えられました。アブラハム一族から逃れて、「泉のほとり」にて神に見い出されたハガルは以下のように告白して、再びアブラハム、サラのもとへ戻りました。 「あなたこそエル・ロイ(16章13節)」(わたしを顧みられる神)」(共同訳) (わたしをご覧くださる神)(岩波訳)、(わたしを見る神)(協会共同訳) 主ヤハウェはアブラハムとイサクのみならず、サラをそしてハガルをも見られました。 『泉のほとりのハガル』(アルブレヒト・ゲース)という表題の説教集を今回読みなおし、次の言葉に心をとめました。 アブラムは人間としてものを見ています。サライもまた人間の目でものを見ております。今日は好意を持って、ところが明日は敵意を抱いてという具合に。これに対して「神よ、汝我を見給う」。「乏しき者の神」と呼ばれる方のまなざしは、こういう風に、たえず変わらず注がれているわけであります。…我々もまた皆、ハガルとして、へだてもなく、民族や人種を超えて、宗教や教派の違いを超えて、何ら区別差別されることなく、我等人類一同が、このまなざしに出会うのであります。 ハガル-イシマエルより、イスラム教が起こされました。イスラム教徒もアブラハムが父祖であります。今も同じ父なる神を仰いでいます。 ロトの信仰についても学びました。ロトは中途半端な信仰でした。ソドムとゴモラが滅ぼされる時に、妻が命を落としました。「山に逃げなさい」と命じられたにもかかわらず、ロトは隣の町へ逃げただけでしたが、命が守られました。背後に、伯父のアブラハムの愛、執り成しの祈りがあり、主の守り、導きがありました。 以上より、アブラハムのみならず、サラとハガル、ロトも、「神は見給う」ことをはっきり示されました。「私たちは見つめられている」。「神は我らが(の)主」のみならず、「神はすべてのものの主!」であることを、はっきり心に留めたいと思います。 (4) 伊藤邦幸より、海外医療など一つの事業を共になすにあたり、「異なった信仰・異なった思想との共存を自明なこととして受け入れ、分離によらず、共存の中で、自己の信仰を深め、純粋性を維持することが大切である」と教えられてきました。 (1986年 無教会夏期懇話会にて発言) 私がデンマーク牧場にて日本福音ルーテル教会の皆さんをはじめ多くの仲間たちと共に働きを続けるために、何よりも大切な心構えとして、受けとめています。「イデオロギー」よりも「アイデンティティー」を大切にするオール沖縄の姿勢が重なります。 それでは私たちが「自己の信仰、純粋性を維持する」とはどんなことでしょうか? イエス・キリストこそ、私たちの救い主、贖い主として、受け入れることがゆるされています。この福音の喜びの信仰を純粋に維持することであります。 浜松聖書集会にて、私はイザヤ書を1章から学び始め、12章まで読みました。 今、イザヤ書9章5~6節の言葉を、私は深く心に受けとめています。 ひとりのみどりごが われわれのために生まれた。 ひとりの男の子が われわれに与えられた。 支配は彼の肩にあり、その名は、 不思議、決意、 力、勇士、永遠の父、平和の君 と唱えられる。 ダビデの王座とその王国に 支配は増し、 平和は絶えることはない。 王国は 審きと正義とによって、 今より後とこしえに、立てられ支えられる。 万軍の主の熱心が これを成し遂げる。 (イザヤ書9・5~6)(佐藤司郎 訳) 万軍の主の熱心こそが、イエス・キリストをこの地上につかわし、救いの御業を成し遂げました。内村鑑三は、次のように記しました。 エホバの熱心 イザヤ書9章6節 (ある友人と夜ばなしに語りしこと) 内村 鑑三 熱心とは熱情である。英語でいうパッションである。すなわち物の前後をかえりみず情に駆られることである。冷静せざることである。… エホバの神にもまたこの熱心があるとのことである。彼は人類を愛する、あまりに切なるがゆえに、彼らを救わんと欲したもうにあたりては、その代価の高きにはすこしも意を注ぎたまわない。彼は親がその子を危険の中より救わんとする時の熱心をもって、自己の地位の高きを忘れ、また自己が救わんとする人より受くべき恥辱に思い及ばず、ただ愛するものを助けんとの一念に、大なる救いをほどこしたもう。 (1906年10月 45歳) ボンヘッファーは、クリスマス・メッセージとして、イザヤ書9章5~6節を取りあげて、只今読んだように訳しました。 ひとりのみどりごが われわれのために生まれた。支配はこのみどりごの肩にあり、「驚くべき指導者(共同訳)、霊妙なる義士(口語訳)、奇しき議官(岩波訳)、Wondeful Counselor」などといろいろと訳される言葉を、ボンヘッファーは、「不思議(Wunder)―決意(Rat)」と訳して、以下のように述べました。 「不思議―決意」 このみどりごはこう呼ばれる。このみどりごにおいて、不思議の中の不思議は生起した。神の永遠の決意から救い主であるみどりごは現われ出た。ひとりの人の子としての姿で、神は私たちに御自身の子を与えられた。神は人となった。言葉は肉となった。それは私に対する神の愛の不思議であり、この愛が私たちを獲得し救済することこそ、計り知れない知恵に満ちた決意である。 しかし、このみどりごが神ご自身の「不思議―決意」であるゆえに、このみどりごはまた、それ自身、あらゆる不思議とあらゆる決意の源泉である。 イエスにおいて神の御子の不思議を認識する者には、彼の言葉の一つひとつが、その行為の一つひとつが不思議となる。またそのような者は、どんな困窮や疑念の中にあっても、彼において最後的な最も深い最も有益な決意を見いだす。しかり、そのみどりごがその唇を開く前に、彼にはあらゆる不思議と決意とが満ちている。飼い葉桶のみどりごのもとへ行け、そして彼において神の御子を信じよ、そうすれば、君は、彼の中に、あらゆる不思議にまさる不思議を、あらゆる決意にまさる決意を見いだすであろう。 「万軍の主の熱心が これを成し遂げる」 この王国が永遠に続き、人間のどんな罪責、どんな反抗にもかかわらず、最後の完成に至ることを保証するのは、御自身の王国に対する熱心なのだ。それは私たちがそれに関与しているか、していないか、に依存しない。神は御自身の計画を、私たちと共にであれ。私たちに反対してであれ、目標にまでいたらせる。しかし、神は、私たちが神と共にあることを欲せられる。神御自身のためにではない。そうではなくて、私たちのためにである。… ボンヘッファー(佐藤司郎訳): クリスマスのための説教黙想(1940年12月 34歳) 主の熱心・決意により、イエス・キリストが決意・真実・愛の源泉となりました。このイエス・キリストの決意、「私は道であり、真理であり、命である」キリストが、いつもわが内に共にいて下さることを信じ受ける事がゆるされている幸いを感謝いたします。「キリストがわれにありて、かつ働きたもう」(内村鑑三)ことにより、私たち自身の決意・真実が与えられます。 私たちは見つめられています。実に多くの方々から、神様、イエス・キリストより、そして今は天にある多くの師、兄弟たちより、見つめられています。 願い、祈りをもって、讃美歌521番を唱和いたしましょう。 讃美歌521 イエスよ 心に宿りて われを宮となしたまえ けがれにそみしこの身を 雪より白くしたまえ わが罪をあらいて 雪より白くしまえ ゆるされて 罪おおわれて 雪ま白 (藤尾正人) ![]() |